心理学を学べば Slack で働けるか?


以上、関学三浦さんのふたつの tweet に触発されてこの記事を書きます。このふたつの tweet の元になっているのは、ビジネス向けチャットアプリ Slack の求人広告です。

Slack の募集画面

昨年から僕もようやく大学教員になって、学部教育に携わるようになり、心理学を学ぶ学生さんたちに何を提供できるのか、真剣に考えるようになりました。今日はこの Slack の求人広告をもとに、今の時代に心理学を教えるにあたって、どんな知識やスキルを提供したら良いのかについて、私論を書いてみます。

まず Slack がどういう人材を募集しているかを見てみましょう。読んでみると、さすがにうまく要点が明確化された求人広告になっています。就職活動するのなら、とりあえずこれくらいちゃんとポイントをまとめられる会社をまず選ぶべきですよね。

さて、ここで求められているのは「研究者」(senior researcher) という肩書の職業で、Slack の開発チームと協力して将来のアプリを設計するという仕事に従事する人のようです 。研究者たちは何人かでチームを構成し、Slack 内部の様々な種類の人たち、例えばデザイナー、技術者、マーケティング担当者などと協力しながら、アプリ開発のあらゆる工程について改善を提案していく、といった感じの仕事をこなすようです。

より具体的には、次のような「やって欲しいこと」が挙げられています。
  1. 製品、デザイン、技術、開発者リレーションズ (様々な開発者間をうまくつなげていく仕事) に関係する様々なチームから提示される重要な問題を集め、その優先順位を決めること。
  2. 調査・インタビュー・日記研究・ユーザビリティ (使いやすさ) 研究などを含む、様々な研究方法を用いて、顧客と開発者に関する洞察 (insights) を収集すること。
  3. 質的・量的な結果を分析し、得られた洞察を適切な人々に、魅力的かつ実行可能な方法で伝えること。
  4. 製品チームと共に働き、Slack を改善するために、彼女たちが研究成果を利用できるよう助けること。
  5. 他のチームと共に働き、私たちのプラットフォーム (注: アプリなどの動作環境) に関する、まとまりのあるストーリーを作ること。
  6. 顧客調査と製品調査に関する内部の伝道者 (evangelist) として活動すること。
また応募条件 (requirements) としては、次のようなものが挙げられています。
  1. ヒューマン・コンピューター・インタラクション、社会学、心理学、情報科学、計算機科学 (もしくは類似のもの) の修士か博士号、もしくはそれと同等の経験。
  2. 5年以上の実務経験 (注: ただしこれは目安にすぎないと注が振ってあります)
  3. 3年以上のプラットフォーム研究の経験
  4. 質的ないしは量的データ収集と分析の経験
  5. 非常に有能なコラボレーター、コミュニケーターであること
  6. 実験参加者のリクルートなど、研究に関連する幅広く多様な課題に対して「自分の手を汚す」決意があること。
このブログでは特に心理学を学ぶ人を念頭に置いて話をしますので、以上から、心理学の修士・博士取得者に対して、大学側はどういった知識やスキルを提供すれば良いのかを考えてみましょう。

幅広い研究・分析テクニックと発表スキル

まずこの求人では、「やって欲しいこと」の 2 と 3、そして応募条件の 4 と 6 で示されている通り、質的・量的データに関する様々な研究方法を身に着けていること、そうした研究方法を具体的に実行し、成果をまとめ、さらにその結果を分かりやすい形にまとめて発表できること、が求められています。個人的には、このあたりは、現在の日本の心理学教育プログラムでも、修士や博士課程まで含めれば、十分カバーできているのではないか、という気がします。もちろん良い教育プログラムを準備して、それを実際にうまく運用している大学/ラボでは、という限定付きですし、そうしたところはさほど多くは無いかもしれませんが、いずれにせよ「理念的には」特に問題なし、と言っても良いのではないでしょうか。

問題解決能力・コミュニケーション・リーダーシップ能力

問題はこちらです。「やって欲しいこと」の1、4、5、6 と「応募条件」の 5 を見ると、極めて多様な関係者の中を動き回って意見を聞き (コミュニケーション能力?)、まとめてプロジェクトの方向性を示し、かつ実際に動かしていくこと (問題解決能力?)、言い換えると、広い意味でのリーダーシップ能力が強く求められていることが分かります。さらに Slack の募集要項を見直してみると、上記の研究スキルよりも、実はこうしたリーダシップ関係の要求の方が多いことに気づかされます。要するに、豊富な研究スキルを持っていても、こうしたリーダーシップ能力のない人は、必要とされていないわけです。

では、こうしたリーダーシップ能力は日本の大学・大学院教育の中で、果たしてまともに教育されているのでしょうか? 僕の個人的な見解では、現在のところ、日本の高等教育機関では、一般的にこうした能力の開発が軽視される傾向が強く、心理学の教育プログラムもその例外ではないと思われます。なぜこういう事態になっているのか、よく分かりませんが、おそらく高度経済成長期の後半以降、既存の社会システムをいかに延命させるかを主眼とした活動と教育が続いてきた結果ではないかと推察します。原因はともかく、まあ単純にそれでは Slack には受からないということですね。もちろん Slack みたいな企業に受かる (そして格差社会を体現する?) ことを目的とした教育だけが良いとは言えないことは認めます。しかし他方で、これほどの急成長を遂げた人気企業に就職できるような人材を育てるのも、良い教育のひとつの在り方ではないかと、僕は思います。

大規模追試プロジェクトを通してリーダーシップを学ぶ

そこでひとつ提案があります。心理学における再現可能性問題への取り組みを通じて、こうしたリーダーシップを育成する、というプログラムはどうでしょうか。ご存知の通り (よく知らないという方は是非こちらを聞いてください)、再現可能性を高めるためには、プレレジを通して研究者の自由度を低く抑えると同時に、統計的検定力を高めて安定した効果量の推定を行う必要があります。そして往々にして高い検定力は多くの N 数を要請し (もちろん例外も多々ありますが、またそれは別の機会に議論します) 、また往々にしてこのことは、まともな研究をやろうと思うと、自分たちの小さな参加者プールでは十分なデータが取り切れないという事態を招いてしまいます。

近年、そうした N 大杉問題に対する対策として、複数のラボ間の大規模協力体制の確立が進んでいます。再現可能性問題が話題になり始めた当初から続いている Many Labs Project もその一例ですし、最近では StudySwapPsychological Science Accelerator、またメタ分析を協力してやっていこうという Metalab などといった形で、国際的な大規模協力システムの開発が続いています。

こうした研究協力プロジェクトを遂行しようとすれば、当然、複数の異なるラボ間で意見を聞き (コミュニケーション能力)、それらをまとめて方向性を示し、具体的に研究を実行する (問題解決能力) という、いわゆるリーダーシップ能力が必要とされます。そこで、これを心理学教育プログラムの中に組み込んでしまってはどうだろうか?というのが、僕の提案です。

もちろん、実験室実験や社会調査を中心とした、従来型の心理研究プロジェクトでも、ある程度のリーダーシップは必要とされますが、現代の多くの企業で求められているような、複数の集団間の文化差 (例えば技術者とマーケティングの人たちの文化差など) を調整しながら、迅速かつ効果的にプロジェクトを推進していくという経験は、既存の大学・大学院の教育だけからは、なかなか得ることができないと思います。大規模研究協力プロジェクトは、そうした意味でひとつの理想的なリーダーシップ教育を提供できると思われます。さらに、もちろんのことですが、そうしたプロジェクトを通じて、ある知見の高い再現可能性を (あるいは低い再現可能性しか持たないことを) 確認することができれば、心理の科学に対する大きな貢献となることは間違いありません。

修士課程の修了生は、その多くが一般企業に就職するわけですから、修士研究として、あるいはその一部として、こうした大規模協力プロジェクトを取り入れのは、悪くないアイデアだろうと思います。博士課程まで進むにしても、就職の際の宣伝材料になりますから、途中で研究が嫌になった場合の保険になるでしょう。あるいは学部生であっても、やる気と能力さえあれば、ラボ間をまたいだリーダーシップを発揮できる人はたくさんいるだろうと思います。個人的にも科学的にも、得るところが多い大規模協力追試プロジェクト。学生さんも教員の方も、是非一度その可能性について考えていただければと思います。

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