ビッグデータ時代の社会観

ちょっと再現可能性とは別の話ですが、最近統計学の勉強をしていて、統計学の黎明期と、優生学との関係がとても気になっています。回帰式を考えた Galton に始まり、Fisher Pearson など、現代の統計学が生み出された背景には、進化生物学と優生学の存在が無視できません。彼らに始まり、1980年代頃までの統計学というのは、正規分布などの数学的に美しい世界に (本当に美しいですし、偉業だと思います)、人間や生物を無理やり当てはめてしまおうという考え方なわけで、何となく優生学的な匂いがするように思うのです。当時は計算機がなかったこともあって、データから分布を力技で推定する、ということができなかったため、個々人のデータを、誤差分布を表現するひとつの理念的な数式に回収していました。そうすると、数式を理解することが、すなわち人間を理解することになると考えられ、個々人の顔や権利が見えにくくなってしまったのではないか、という気がするのです。回帰式に無理矢理たとえて言ってしまうと、Y = aX + b という式こそが国民国家であり、美しい指導理念であり、ナチズムや共産主義などの「大きな物語」であり、大衆はそこに付随する + e という誤差項によって生み出されるサンプルに過ぎない、という感じでしょうか。国家という式はすでに理念的に定義されており、それが母集団の真の性質であり、大衆はそこから generate されるサンプルにすぎないから、いくら死んでも替えが効く、という感じがします。

しかしその後、80年代以降計算機が簡便に使えるようになってからは、例えば進化生物学も agent-based model の simulation などを頻繁にやるようになり、そこに個体の利得を基礎とするゲーム理論が乗っかったりして、個々人の顔がよく見えるようになった気がします。統計学も、数式をトップダウンに持ってくるのではなくて、bootstrapping など、データからボトムアップに分布を推定できるようになりました。また、まだ僕も勉強途中なのでよくわかっていませんが、機械学習などに至ると、もはや理論的理解をあきらめざるを得ない場合も多いらしく、もはや研究者がデータの性質をトップダウンに理解することができなくなってきている気がします。つまりこの場合、母集団の性質は、どこからか数式を持ってきて当てはめるのではなく、あくまで個々のデータから「構築」されるべきものだという感じがします。しかもその構築された母集団の性質というのは、確かに同一の構築方法を繰り返せば再現したり予測したりはできるものの、もはやどんなに有能な研究者であっても完全に理解することはできないようです。当然、こうした考え方から出てくる社会観は、20世紀的なものとは変わってくるだろうと思います。明確に、強く定義された政治理念と、それに付随する大衆という国民国家のイメージではなく、もはや「大衆」というひとくくりの単位に基づくものですらないだろうと思います。現代の社会観とは、あくまで個々人の一見ランダムな動きが最初にあり、社会は、そのきわめて複雑な相互作用の中から構築されていくもので、我々はその社会に対して、社会制度の構築や改変を通じて外生的な変化を与えること、その結果を予測することはある程度できるだろうけれど、なぜそうした変化が生じるのか、そのメカニズムを完全に把握し、コントロールすることはできない、というイメージではないかと思います。

また、何となくですが、こうした「ビッグデータ」時代の社会観というのは、SNS やネットを通じて情報を摂取している現代の人々の中にも共有されているのではないか、という気がしてなりません。SNS では実際に、社会の中の「誰か」の顔写真や、日々の生活を簡単に見ることができます。そうした情報を見ながら、それをひとくくりに「大衆」とまとめることは直感的に難しいですし、またそうした個々人の間のインタラクションはあまりにも多様なので、それらをひとつの抽象的な指導理念のもとにまとめることも、また不可能だと感じているのではないでしょうか。このことは、ヨーロッパの移民問題やイギリスの EU 離脱、またトランプ政権の誕生といった、国民国家の分断とその理念の崩壊も意味すると思いますが、他方で、個々人の多様性を前提とした、新しい社会制度設計の考え方も生み出すだろうと思われます。すでに私たちは新しい時代の統計学を手に入れているわけですから、今後はそれを使いこなし、新しい時代の社会科学を作っていかなくてはならない、ということだろうと思います。

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